最近の研究概要


化学の分野では原子・分子系としての物質の性質を調べるために、実験的手法以外にコンピューター・シミュレーションの方法が広く用いられてきた。われわれは、この範疇の中で量子多原子・分子系のダイナミクス・シミュレーションの方法を発展させると同時に、それを量子性を帯びた実在の化学物質や低温での量子現象(低温の液体・結晶・クラスターのダイナミクス)へ応用し、未踏の物性・現象を先験的に解明する研究を行っている。

T. 量子多原子・分子系ダイナミクス・シミュレーションの展開

 物質中の原子・分子の量子ダイナミクス、およびそれが起源となる物性や現象を解明することは、ともに21世紀初頭の化学の最も大きな課題の一つである。物質は多数個の原子・分子から成る「多原子・分子系」であるが、その原子・分子のダイナミクスをシミュレーションで探る方法は従来、古典力学に基づいた分子動力学(MD)シミュレーションが主であった。このような古典的MDシミュレーションは、既に統計力学的に正当な方法が確立されて各種の体系に遍く応用され、もはや完成の域にある。しかし一方、原子・分子が軽くて温度が低く、その運動が古典力学から逸脱して量子効果が現れる場合、その原子・分子の「量子ダイナミクス(量子効果を含むダイナミクス)」をシミュレーションで追跡することは、現在の最も先端的な研究課題である。原理的には時間依存のシュレディンガー方程式を数値的に解けばよいのであるが、この方程式は4原子程度以上の多自由度の体系になると現在のコンピューターの能力では解けなくなるため、物質中の原子・分子の量子ダイナミクスの理解は容易には進展しなかった。

 しかし、1994年にCaoとVothが J. Chem. Phys. に発表した「径路積分セントロイド分子動力学(CMD)法」なる画期的な計算法を用いれば、この壁を打ち破ることができる。すなわち、 CMDは近似的にではあるが一定の熱力学的条件(ある温度、ある圧力)下での多数の量子粒子のダイナミクスをシミュレートできる。これは不確定性原理に由来する量子分散の効果が径路積分法によって取り入れられた一種の半古典近似に基づく方法である。このシミュレーションから量子統計力学的実時間相関関数(オブザーバブル)、すなわち量子ダイナミクスが計算できることが知られている。

 われわれはCaoらの発表の翌年以降、このCMDの計算技法(アルゴリズム)・ソフトウェアを世界に先駆けて開発し、主としてパラ水素系の量子ダイナミクスをシミュレートしてきた(論文7,8)。現在でもまだCMD以外には量子多原子・分子系の量子ダイナミクスを計算できる方法は存在していない。また、CMDをドライブしている研究グループはわれわれを含めて世界で3〜4グループ程度しかいない。

U. 液体水素の集団励起のCMDによる先験的予言

 古典液体と同じく、量子液体においても集団励起――ある空間範囲での原子・分子のグループの集団的な運動――が存在する。この集団的運動は実験的には中性子非弾性散乱によって観測されるが、これまで実験の困難のために液体パラ水素に対しては、唯一1973年の非弾性散乱実験が不満足な結果を報告していたに過ぎない。従って、水素はもっとも基本的な物質であるのにもかかわらず、この物質の液体状態で起こっている分子の集団的な運動についてはよくわかっていなかった。われわれは1998年にCMDシミュレーションによって、液体パラ水素の動的構造因子 S(k,ω)を計算した(論文6)。これはコンピューター・シミュレーション一般のうちで、量子液体の集団運動に関する世界初の計算であったが、この計算結果はその翌年(1999年)欧州で強力な中性子線を用いて行われた非弾性散乱実験によって観測、追認された(この実験結果は1973年の実験結果よりもわれわれのCMDの方によく一致していた。下図参照。論文2,3)。もちろんこの量子液体の集団励起は古典MDでは全く記述できず、分子の量子性が集団励起の要因であることが明らかになった。われわれのこのCMD計算は実験結果を1年前に予言していたことになる。

 

図. 液体パラ水素の集団励起パラメーター. 
(a) 励起エネルギー; (b) 減衰定数; (c) 位相速度.
●,■ 中性子実験;  ◇ CMD; ◎ 古典MD. 
中性子実験とCMDとの一致はよい。古典MDは全く中性子実験結果を再現していない。



V. ボーズ統計およびフェルミ統計に従う量子多原子・分子系ダイナミクス計算法の開発

 Cao-VothのCMD法はボルツマン統計に対するものであるが、低温では例えば液体ヘリウム4に見られるように、体系はボルツマン統計から逸脱しボーズ/フェルミ統計の効果が顕著になる。その結果、超流動、ボーズ−アインシュタイン凝縮のような特異な量子現象が発現する。これらの現象は化学の分野でも近年分子分光実験などで大きな注目を集めており、ボーズ/フェルミ多原子・分子系の量子ダイナミクスのためのシミュレーションの開発が切望されてきた。1999年にわれわれはCMD法をボーズ/フェルミ統計に拡張することに成功し、その結果量子粒子の量子分散の効果だけでなく統計的相関の効果をも取り込んだ、量子ダイナミクス・シミュレーションの方法を開発した(“ボーズ/フェルミCMD”、論文2,4,5)。さらに最近、この拡張した手法から確かに量子統計力学的オブザーバブルとしての時間相関関数を計算できることを解析的に証明した(論文1)。このわれわれの結論はその後Blinov-Roy-Vothによっても追証明され、われわれの開発したスキームが正当であることが確認された。“ボーズ/フェルミCMD”は、ボーズ/フェルミ多原子・分子系の量子ダイナミクスをシミュレーションで計算できる有力な方法であるだけでなく、MDシミュレーションの手法を極限まで拡張したものであり、コンピューター・シミュレーションの著しいブレークスルーであると自負している。

主要発表論文

1.  K. Kinugawa, H. Nagao, and K. Ohta, "A semiclassical approach to the dynamics of many-body Bose/Fermi

   systems by the path integral centroid molecular dynamics", J. Chem. Phys. 114, 1454-1466 (2001).

2.  K. Kinugawa, H. Nagao, and K.Ohta, "A path integral centroid molecular dynamics method for Bose and

   Fermi statistics," J. Mol. Liquids (Special Issue) 90 , 11-20 (2001).

3.  F.J. Bermejo, K. Kinugawa , C. Cabrillo, S.M. Bennington, B. Fåk, M.T. Fernández-Díaz, P. Verkerk, J.

   Dawidowski, and R. Fernández-Perea, "Quantum effects on liquid dynamics as evidenced by the presence of

   well-defined collective excitations in liquid para-hydrogen," Phys. Rev. Lett. 84, 5359-5362 (2000).

4.  K. Kinugawa, H. Nagao, and K. Ohta, " Path integral centroid molecular dynamics simulation extended to

   Bose and Fermi statistics: method and applications," Prog. Theor. Phys. Suppl. 138 , 531-532 (2000).

5.  K. Kinugawa, H. Nagao, and K. Ohta, "Path integral centroid molecular dynamics method for Bose and Fermi

   statistics: formalism and simulation," Chem. Phys. Lett. 307, 187-197 (1999).

6.  K. Kinugawa, "Path integral centroid molecular dynamics study of the dynamic structure factors of liquid

   para-hydrogen," Chem. Phys. Lett. 292, 454-460 (1998).

7.  K. Kinugawa, P.B. Moore, and M.L. Klein, "Centroid path integral molecular-dynamics studies of a

   para-hydrogen slab containing a lithium impurity," J. Chem. Phys. 109, 610-617 (1998).

8.  K. Kinugawa, P.B. Moore, and M.L. Klein, "Centroid path integral molecular dynamics simulation of lithium  

   para-hydrogen clusters," J. Chem. Phys. 106, 1154-1169 (1997).