生命の神秘がどこにあるかという疑問に対して、19世紀終わり頃から20世紀の初めにかけて、生物のあるところには必ず見つかるタンパク質がその神秘の源であるという説が広く信じられていました。ところが1953年にWatsonCrickDNAの二重らせん構造を明らかにし、さらにそれをもとに遺伝のしくみまで解明してしまって以来、この説は長い間下火になっていました。
 その間に遺伝子の研究はいよいよ発展し、21世紀の初めにはとうとう全長
1.2 m程もあるヒトのゲノム(全遺伝子)がほぼ完全に解読されるまでになりました。しかし、ゲノムが全部解読できたからには生命の神秘も解き明かされたかというと、実はそうではありませんでした。結局、遺伝子は生命を働かせる「道具」の設計図であって、実際にはたらく「道具」、すなわちタンパク質の構造や行動がわからなければやはり生命の神秘は解き明かせないことがわかってきました。
 しかも実際にはたらいているタンパク質を調べてみると、設計図から予想されるタンパク質と微妙に違うことが多いので、そのタンパク質が設計図のどこに書いてあるか見つけるのも大変な作業になります。そのタンパク質はヒトで3万種類程もあると言われています(それしかないのかと思う人もいるかもしれません)。この大量のタンパク質のどれがいつ、細胞のどこで現われて特定の生命現象を引き起こすかを明らかにするために
プロテオミクスと呼ばれる新しい学問分野が誕生してからまだ20年も経っていません。ちなみにプロテオミクスが誕生した時期は、MALDI(マトリックス支援レーザー脱離/イオン化)とESI(エレクトロスプレー・イオン化)方式の質量分析法がほぼ同時に開発されて、微量のタンパク質の質量が正確に求められるようになった1987年とほぼ一致します。
                                  
 というわけで、タンパク質の研究には生命の神秘に近付けるという魅力と期待感がつきまといます。同時にゴールがどこにあるか見当もつかないという不安感もあります。最近のバイオブームで競争相手も増えてきました。でも幸か不幸か有機化学を得意とする生命科学の研究者は比較的少ないので、本当のライバルはあまり多くはありません(もちろん強敵も何人かいます)。個人的な感想ですが、有機化学的に見ると、タンパク質ほど面白い分子はありません。新しい反応を使い、今まで誰にもできなかったことをできるようにすれば、誰でもその方法を使うようになるので、自分で直接手を下さなくても人類が生命の神秘に迫るのに役立つわけです
1。 そういった問題を多く抱えているのがタンパク質で、その問題の一つを解決するために、今、普通の方法とは逆に、タンパク質のカルボキシル基がある側からアミノ酸の配列を決める方法を研究しています。これまでそういう方法がなかったわけではないのですが、タンパク質の試料の数が急増し、一方で分析に使えるタンパク質は微量化するので、早くて高感度の分析技術が必要になったのです。最近、古くから知られている有機化学反応と最新の質量分析法を組み合わせた方法を見つけることができました(下の図参照)2




 この方法を報告した論文は、少なくとも投稿した雑誌の論文審査員にはとても評判がよく、11月頃に世に出る予定です
3。ただこの方法を世界中の研究者に使ってもらうにはさらにもう一工夫必要でしょう。
 この研究を担当している学生と院生はカルボキシル基にくっつける目印の試薬の合成と、それをくっつける方法の改良という課題に日々取り組んでいます。奈良女子大学にこの実験に必要な
MALDIタイプの質量分析装置がないのが私たちの弱みなのですが、代わりに、MALDIを生み出した島津製作所の装置と最新の分析技術を使って測定できるのは最大の強みです。必要があればまだ試作中の装置が使えるというもう一つの強みを生かして、化学反応に頼るばかりでなく、装置自身の特性を生かした新しい測定法も開発中です。1995年から約一年間、指導していただいたRay Freeman先生(University of Cambridge)のNMRの教科書、”Spin Choreography”に習って、質量分析で”Mass Choreography”を実現するのが目標の一つになっています。
                                 
 有機化学から見ると、タンパク質のアミノ酸配列(一次構造)を決めるパズルを考えるのも面白いのですが、実際にはたらいている個々のタンパク質の立体構造や酵素の反応機構を知ることは「生命の神秘」という点でもっと興味深い研究課題です。中でも、遺伝暗号に書かれた通りにアミノ酸が並ぶと(つまり一次構造が決まると)できたタンパク質は自然に安定な立体構造ができあがるという、ある意味では当然であるけれども、よく考えてみると実に不思議な現象があります。これは、タンパク質の「フォールディング」問題として生物物理学の分野で長い間研究されてきましたが、未だに解決されていません。現在は休止状態ですが、私たちの研究室
でもアミノ酸配列情報からコンピューターシミュレーションでタンパク質の立体構造を予測する研究を、分子研の岡本祐幸先生(現・名大)と共同で10年程続けていました4。休止状態になったのは人手不足という理由のほかに、現在のコンピューターの能力では溶媒の効果も加えた精密なエネルギーの最小化計算は無理そうだと考えたためです。だから休止中とはいっても、いつでも再開できるように、心の準備はできています。
 この問題に関連して、タンパク質の立体構造の研究以来(正確には、学生時代以来)お世話になっている大阪大学薬学部の小林祐次先生(現・大阪薬大)のグループと共同で、コラーゲンの構造について研究しています。
 コラーゲンというのは骨や皮膚など文字どおり人間の骨格を保つのに最も重要なタンパク質です。そうした骨格構造のもとになるのはコラーゲン分子に特有のアミノ酸が3つ一組で規則的に並んだペプチド鎖が3本集まって絡まり合ったらせん構造にあることは既に知られていましたが、なぜらせんが2本でなく3本の鎖でできているか、また3つ組のアミノ酸のどのような性質によって3本鎖構造が安定に存在できるのか、未だに論争の的となっています。一時、3つ組のアミノ酸の一つであるプロリンというアミノ酸の5角形の環がある特定の形に折り曲げられると構造が安定化するという説が提案されました。この説は、天然のコラーゲンではプロリンの5角形の環に水酸基がつくとより安定になる点に着目して、水酸基の代わりにフッ素をくっつけて環の折り曲がり方を固定したらもっと安定な3本鎖のらせんができたという画期的な実験結果をもとに提案され、しかもその論文が
Natureに掲載されたので、いよいよこの問題も解決したと多くの研究者は考えたようです。
 しかし、私たちはこの説がフッ素と水酸基を同じ性質だと見なしている点に疑問を感じて、まずこの説を検証してみることにしました。そのために、まずフッ素の入ったプロリンの合成から始めました
5。それから5角形の環に水酸基やフッ素をつけたプロリンの類似アミノ酸を含んだモデルペプチドを合成し、その溶液の比熱測定、超遠心分析、円二色性(CD)およびNMRスペクトルの測定、さらに結晶のX線解析など、有機合成から物理化学的測定まで化学のあらゆる方法を使って、ようやく水酸基とフッ素は熱力学的に全く別の理由でコラーゲンの3本鎖構造を安定にしていることをつきとめました6。現在、こうして提案した新しい説を補強するための実験を続けています。
                                 
 ここで紹介したいくつかの例からもわかるように、タンパク質の研究は、有機化学、生物化学から分析化学、物理化学、分子分光学に至る、ほとんどすべての科学の分野にまたがっています。
 実験も普通の化学実験室にあるフラスコや蒸留装置などを使う有機合成から、一台数千万円から1億円を超える高性能の分析機器を使う構造解析まで、とても全部を一つの研究室でできるものではなく、また一人で何もかもできるものでもありません。スポーツでいうと柔道のような格闘技やテニスよりも、サッカーやラグビーのようなチームで戦う種目と似ています。野球も団体競技ですが、ピッチャーは投げるだけ(もちろんバットを振ることもありますが、点を取るにはかえって邪魔になるのが普通です)と専門化し過ぎて実際にプレーするには面白くないので、私たちの研究室はラグビー型のチームプレーを目指しています。
 例えばある化合物をボールとすると、それを合成したら(相手のボールを分捕る)それで仕事が終わりではなく、トライにもっていくために測定の得意な(足の速い?)仲間にパスしてもいいし、自信があれば自分でそれを最後まで持っていってもいいのです。試合を楽しむには、できるだけ長い間ボールに触れているのが一番です。また、ラグビーボールがどう転がるか予想し難いところも、科学の研究と似ています。このチームの特徴は、2つか3つのチームに別れて所属している学生と院生が同居してまた一つのチームでプレーしているところでしょうか。トライの記録の一部は脚注(中沢チームのメンバーは青字で書いてあります)にまとめました。現在のメンバーの名前がこのリストに加わるのもそれほど先のことではないでしょう。

1 Takashi Nakazawa. “Chemistry in Proteomics: An interplay between classical methods in chemical modification of proteins and mass spectrometry at the cutting edge” Current Proteomics 3, 33-54 (2006).
2 Takashi Nakazawa, Minoru Yamaguchi, Kimiko Nishida, Hiroki Kuyama, Takashi Obama, Eiji Ando, Taka-aki Okamura, Norikazu Ueyama, Koichi Tanaka, and Shigemi Norioka. “Enhanced responses in matrix assisted laser desorption/ionization mass spectrometry of peptides derivatized with arginine via a C-terminal oxazolone” Rapid Commun. Mass Spectrom. 18, 799-807 (2004).
3 Minoru Yamaguchi, Mutsumi Oka, Kimiko Nishida, Mayu Ishida, Ayako Hamazaki, Hiroki Kuyama, Eiji Ando, Taka-aki Okamura, Norikazu Ueyama, Shigemi Norioka, Osamu Nishimura, Susumu Tsunasawa, and Takashi Nakazawa. “Enhancement of MALDI-MS Spectra of C-Terminal Peptides by the Modification of Proteins via an Active Ester Generated in situ from an Oxazolone” Anal. Chem. 78, in press (2006).

4 (a) Yuko Okamoto, Masato Masuya, Miho Nabeshima, and Takashi Nakazawa. “b-Sheet formation in RPTI(16-36) by Monte Carlo simulated annealing” Chem. Phys. Lett. 299, 17-24 (1999); (b) Takashi Nakazawa, Sumiko Ban, Yuka Okuda, Masato Masuya, Ayori Mitsutake, and Yuko Okamoto. “A pH-dependent variation in a-helix structure of the S-peptide of ribonuclease A studied by Monte Carlo simulated annealing” Biopolymers 63, 273-279 (2002).
5 Masamitsu Doi, Yoshinori Nishi, Naruto Kiritoshi, Tomoya Iwata, Mika Nago, Hiroaki Nakano, Susumu Uchiyama, Takashi Nakazawa, Tateaki Wakamiya, and Yuji Kobayashi. “Simple and efficient syntheses of Boc- and Fmoc-protected 4(R)- and 4(S)-fluoroproline solely from 4(R)-hydroxyproline” Tetrahedron, 58, 8453-8459 (2002).
6 (a) Masamitsu Doi, Yoshinori Nishi, Susumu Uchiyama, Yuji Nishiuchi, Takashi Nakazawa, Tadayasu Ohkubo, and Yuji Kobayashi. “Characterization of collagen model peptides containing 4-fluoroproline; (4(S)-fluoroproline-Pro-Gly)10 forms triple helix but (4(R)-fluoroproline-Pro-Gly)10 does not” J. Am. Chem. Soc. 125, 9922-9923 (2003); (b) Yoshinori Nishi, Susumu Uchiyama, Masamitsu Doi, Yuji Nishiuchi, Takashi Nakazawa, Tadayasu Ohkubo, and Yuji Kobayashi. “Different effects of 4-hydroxyproline and 4-fluoroproline on the stability of collagen triple helix” Biochemistry 44, 6034-6042 (2005); (c) Kazuki Kawahara, Yoshinori Nishi, Shota Nakamura, Susumu Uchiyama, Yuji Nishiuchi, Takashi Nakazawa, Tadayasu Ohkubo, and Yuji Kobayashi. “Effect of hydration on the stability of the collagen-like triple helical structure of [4(R)-hydroxyprolyl-4(R)-hydroxyprolylglycine]10Biochemistry 44, 15812-15822 (2005).

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